悠々自適に音楽語り

バロック以前から現代まで。好きな作品や隠れた名曲を紹介します。

「音楽解釈の余地」はどこにあるのか?

解釈、英語ではinterpretなどと言われるものは、プロ・アマチュアに関係なく音楽をする人々にとって無視できない物であるが、解釈という言葉について具体的に説明できないという人は思いのほか多い、と感じることがある。

この言葉を突き詰めて考えていくと往々にして「どのような音楽・演奏があってもいいじゃない」といった言葉にたどり着くものであり、実際にそうした言葉を耳にする機会は多い。

しかし音楽教育の現場では「楽譜には忠実に」という思想もまたよく見られ、これらは一見矛盾しているように思える。

多くの人をして「超一流」と呼ばれるような演奏家たちーー例えばルービンシュタインバックハウスのようなーーは楽譜を非常に大切にしており、彼らには「楽譜に忠実」によった演奏がよく見られる。

そして、名盤、なかんずく定番と言われるほどの演奏となると、多くの場合において非常に楽譜に忠実であり、中には演奏を聴くだけで頭の中で楽譜が想像できるようなものすらある。

「楽譜を解釈する」とはよく言い、また演奏を聴いた人もまた解釈という言葉をよく口にする。

解釈は楽譜と演奏の狭間の、どこにあるのだろうか。

筆者の個人的な考えであるが、現役の音大生という立場から、クラシック作品の演奏を学ぶ人々に向けて一つの考え方を発信したい。

 

まず前提条件として挙げなくてはならない要素がある。

「共通認識としての完璧な演奏の基準」である。

これがなくては演奏の良し悪しを判断することはできないし、名盤という言葉は存在しえず、当然のこと演奏家に対する評価という概念も消え去ってしまうだろう。演奏家がどのような演奏をするか、どのように解釈をするか、この指標になるものだ。

これを定義する事は非常に困難であるが、個人差を抑えようとするならば作曲家の意図を完全に汲んでいることと、ミスタッチやコントロールの不正確さのような演奏上のエラーが無い事の二点を挙げるのが無難であろう。

仮に100%作曲家の意図通りで、演奏者の思い通りにコントロールされミスタッチも一切ない演奏があったとして、その好みでないと感じるならそれは演奏ではなくその曲が好みでないと言える。

さて、楽譜は作曲家が残した「伝える手段」である。

これを勘違いしてしまう人は少なくないが、楽譜に書かれている情報に大小はなく、単に数文字書かれた"legato"の文字列や、音符の上に書かれた小さなアーティキュレーションであっても、音符よりも存在感が無いように見えるがあくまで同価である。

音符を読むことをおざなりにしてしまう人はまずいないだろう。楽譜に書かれた音符を実際に鳴らさないこと(ヴァレンティナ・リシッツァがわかりやすい)や書かれていない音を鳴らすこと(ホロヴィッツ、シフラなどが顕著)を解釈と呼ぶ人は少なく、これは編曲と呼ばれる。

英語ではArrange……ではなく、Transcriptionである。

楽譜についたゴミではないのだからスタッカートも、楽譜の中央に書かれた正体不明の「-」も、同じように一つ一つ読み、考える必要がある。それを放棄することは解釈ではなく理解の放棄であり、変更したならそれは音符の時と同じように編曲(Transcription)と呼ぶべきものだ。
しかし解釈という言葉を大きく解釈しすぎた人、つまり「どのような音楽・演奏があってもいいじゃない」の範囲を大きく捉えすぎている人が、楽譜に書かれたアーティキュレーションなどの細かい指示を無視してしまうことがある。

これが悪いとは言わないし、もちろんそうした演奏があっても良い。それが非常に良く聴こえる事も当然ある。

しかし楽譜に明確に記されている以上これは「作曲家の意図を無視する行為」であり、先ほどの定義において良い演奏とは言えないし、意図を放棄している時点で解釈以前の話である。

個人的に最も分かりやすいと思うのはフジコ・ヘミングのラ・カンパネラだ。

奇跡のカンパネラなどともてはやされ、小さな流行りと言っていいほどに話題になった(演奏というより彼女の経歴を含めてものだ)。

彼女は、シンプルに表現すると「非常にゆっくりと」「多く、深くペダルを踏み」「幻想的な曖昧さを持って」演奏する。

ここでラ・カンパネラの楽譜を見て、筆者なりに解釈しつつフジコ・ヘミングの演奏と比較してみよう。

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テンポはAllegrettoだ。遅くない。 

すべての音にスタッカートが記されている。スタッカートには音を切るという意味があるほか、「その音を大切にする」「その音のあとにritのように間を置く」などのように何かを示唆するだけで、実際に音を切らないでも良いケースが存在する。

大切にする、という意味なら後述するmarcatoとバッティングする。

すべての音についている時点でritのように~でもないだろう。何よりこの楽譜にはAllegrettoと書かれている。

ならば普通に音を切ることを意味している、すなわちペダルを踏まないことを暗黙的に指示していると考えられる。

序奏が終わり主題が出てくる5小節目には"p ma sempre ben marcato il tema."と記されている。

決して難しい標語は使われていない。「ピアノで、しかしテーマは常にはっきりと」という意味だ。

marcatoという指示をリストはよく使う。よくある両手オクターヴの音型だ。

「はっきりと」と訳したが、英語のmarkと同じような意味を持った言葉であり「印をつける」とするのがより正確。

杭を打ちこむような、非常に強靭な打鍵を要求する場面で使われる事が多い。

pとmarcatoを両立するのは非常に難しく、この場合は当然「杭を打ち込むような強靭な打鍵」は適切ではないが、印をつける・はっきりとと言っている時点で幻想的な指示とは真逆である。

つまり、彼女は音符などの「音程を示す記号」以外のほぼすべての要素を無視している。

先ほども言ったようにこの演奏が好きという人はいるし、(筆者の嗜好は別として)悪い演奏だというつもりはない。

が、これではもう「リストのカンパネラ」ではなく「フジコ・ヘミングのカンパネラ」だ。

解釈の領域は大きく逸脱しているし、作曲家の意図もほとんど残っておらず、編曲と呼んで良い代物である。

そして超一流、巨匠と呼ばれる人々によくみられる「楽譜に忠実」というのは対極。

 

ここまでの話で分かること。それは、「解釈とは”演奏者が曲をどう思うか”ではなく”作曲家がどういう意図でそうしたのか”を追求するものである」ということだ。

「楽譜には○○と書かれているけど、私は△△だと思うから私はこう弾く」は解釈というより編曲と呼ぶべきものであり、解釈というからには「楽譜に○○と書かれている。作曲家は何のつもりでこれを書いたのだろう」という程度に抑えておくべきだろう。

先ほどの「カンパネラのスタッカート」に限定しても、筆者とは別の考え方として、すべてにスタッカートがついているのにテーマだけわざわざ倍の音価を持つ八分音符が重ねられているのだから、下だけスラーのようにつなげても良いだろう(できるものなら、であるが)。大胆にもすべてのスタッカートをアクセント的意味に解釈してしまうのも面白いかもしれない。良し悪しは別として、一つの解釈だ。

当然、その結論に至るまでの確かな理由が必要だ。確かな根拠は演奏の説得力を生み、延いては演奏の良し悪しにすら直結する。

 

ここまでは「楽譜に書かれた記号を解釈する段階」について話をしたが、解釈にはもう一つの段階がある。

それは「楽譜に書かれていない暗黙を解釈する段階」だ。当時の作曲家の人間関係や近況を調べてみたり、作品全体を読み込むことで初めて見えてくる情報もこれに該当するだろう。

楽譜に書かれていない以上作曲家が意図していない可能性もあるのだから、それを演奏に反映するかどうかも「解釈」の一部ということなる。

これこそが演奏者の本領であり、それこそフジコ・ヘミングのような感性豊かな解釈というのはこの段階で求められるものである。

これについて何よりも先に筆者が言いたいことは、「段階」と表現したように、楽譜に書かれた記号を解釈したうえで初めて成り立つものだということだ。

あくまで厳格に楽譜に従う第一段階の「記号の解釈」、そして演奏者の個性を存分に発揮する第二段階の「暗黙の解釈」として分け、言葉を割り当てておこう。

楽譜に忠実である事を個性がなくなると忌み嫌う人は一定数いるが、実際のところ忠実な譜読みが正確に出来る人は決して多くはおらず、実は記号の解釈の時点で非常に奥が深いのである。

 

第二段階「暗黙の解釈」についても語りたいのは山々であるが、さすがに記事が長くなりすぎるのでひとまずここで筆をおこうと思う。